ラスタファクトリは個人資金で設立した零細企業です。
いまもって取締役会で意思決定するような規模の組織ではありません。
ラスタファクトリが実際にどのような動機でいかな活動をしているか。
それをお伝えするには、代表者の個性を知っていただくことがいちばんと思います。
代表猪野のラスタファクトリ設立に至る経歴を紹介します。
なぜラスタファクトリを起業したのか、ずっと零細のままなのに諦めないのか。根っこにある衝動。この仕事、コンピューターソフトウェアを作るのが好きで楽しい、
もっともっと突き詰めたい、という思いが伝わったなら幸いです。
1967年 福島県 福島市生まれ。生命力が強いといわれる蠍座O型。
〜1977年 「学研の科学」付録の影響で、プラモ少年が電子ブロックを経て
ラジオ少年に転身。
セメダイン接着からハンダ付けに移行。
自作ラジオと親に買ってもらったProceed2600でBCLしながら
電子工作に凝る。
たまたまFENを受信してテレビの歌謡曲が嫌いになり、
洋楽を聴きはじめる。
1978年 インベーダーブームでゲームセンター通い。
小中生インベーダー禁止令発動されるが、
プレイしなければ出入りは自由。
画面を見ているだけで楽しい。
この頃、近所の高校の学祭でTK80とCommodoreCBMに
触らせてもらい、はじめてコンピューターを操作する。
同時期に友だちの父親が務める電機メーカーの電算室を見学。
SF映画的に磁気テープがグルグル回っている部屋で
紙テープ打ちを体験。
おみやげに大量のTTL-ICやLEDと一緒に社内教育用の
テキスト本をもらう。
1980年 ゲームセンターで流れていたYMOの「ライディーン」に衝撃。
「コンピューターってスゲー!」と夢中になり、
地元のNECショールームに入り浸り。
友だちと店舗を占拠して、雑誌に掲載されたゲームの
プログラムリストを打ち込んでは遊ぶ日々。
1981年 親を「必ず元は取る」と説得してPC8001を買ってもらう。
BASICで書いた自作ゲームを雑誌に投稿するが採用されず。
機械語を勉強。
1983年〜 自作ゲームを第1回ポニーキャニオンプログラムコンテストに応募。
第3席入賞して賞金獲得。PC8001購入費の元を取る。
同時期に開催されたエニックスの第1回コンテストでは、
それまで雑誌投稿で活躍していた高校生スタープログラマーで、
その後チュンソフト設立してドラクエを作る中村光一さんが第2席。
このとき高校進学を拒絶してポニーキャニオンと専属契約。
以降、主にプログラマとしてPC8001、FM7、MSX、ファミコン、
スーパーファミコン、ゲームボーイ、プレイステーションなど
のゲーム開発に携わる。
その一方で、高卒ですらないことに世間体の限界を感じ、
通信制高校に就学しつつ大学入学資格者検定取得。
1985年 YAMAHAのMSX+FM音源で制作したYMOのコピーと自作曲を
「坂本龍一のサウンドストリート」のデモテープ特集に応募するが
採用されず。
そのデモテープ制作がきっかけとなり自作曲をファミコンゲームの
BGMに提供。
制作会社のセンスや技術的な諸事情もあり、
ディスクシステム伝説のクソゲーといわれる。
1992年 8年掛かって通信制高校を卒業。
1999年 DTMでYMO楽曲コピー演奏のCDを制作、周囲のYMO仲間に配布。
「怨念を感じる」と評価される。
2000年 プレイステーションの音楽制作ソフト開発に参加してYMOの怨念を晴らす。
ゲーム開発の大規模化の流れで個人事業での請負が困難になり、
ゲーム業界を退く。
以前からよく行っていた某ハンバーグレストランチェーン店に
アルバイト勤務。
キッチンリーダー兼バックヤードとしてパートの学生や主婦の
皆さん、プロパー社員のひとびとと交流。
2001年 電機メーカー設計子会社に派遣プログラマーとして勤務。
2002年 仕事の掛け持ちが難しくなりハンバーグレストラン退職。
2003年 派遣会社との契約延長を辞退。
有限会社ラスタファクトリを設立して元派遣先との請負契約を締結。
1986年以降は仙台市に在住。
1997年からブランメル / ベガルタ仙台のホームゲームはほぼ皆勤。